いろいろ足りない

不足分を補いたい

最後の一文が言いたかっただけの何か

連休中にも関わらずもやもや感が脳裏から離れないので勢いで書く。
やはり人間関係というものは厄介で、これがなければ孤独にはなるが、煩わしい問題からは解放されるなと心より思う次第。


感情を露わにしないのは、日本では美徳とされているのではなかろうか。
感情のままに生きていられるのはせいぜい幼少期だけで、大人になるにつれ感情の起伏が平坦になっていく。
怒りを表現しない、喜びを抑える、とにかく感情を表に出さないのが大人とされる気がしている。
自分にはそのような背景があり、どうも周りの欧米人を見ていると、子供っぽいと思ってしまうのだ*1
彼らはほんの小さな怒りでも、身振り手振り顔ぶりでストレートに表現する。
小さな喜びも隠すことをしない。顔を見ればわかる。


このような文化的な違いで済ませられる範囲であればまだ良かったのであろう。問題は深刻である。


ある分野・要素において、(今となっては疑わしい面は多々あるが)経験があり、自信も見て取れる人がいた。
その要素は長く続いていた問題を解決しうるものであり、はじめは自分としても期待があった。
だが、時間が経つにつれ、その人の技量・性格に難ありと判断せざるを得ないようになってきた。
こちらの一方的な言い分としては、その人は平気で批難をする。自分が正しいと示すためには他者の侮辱も厭わない。
やんわりと言えばきちんと主張できる人ではあるのだが、それは他人の主張も聞き入れる姿勢があってこそであろう。
その他にも上司の決めたことは守らないわ、自分が必要だと思ったことだけ押し進めるわで、定期的に気分を害するメールを送ってくるわで少なくとも自分が上司であればチームに加えたくない人物であった。
その本人もある程度はやりづらさ、問題意識はあるようなのだが、そこには致命的なズレがあるようだ。
その致命的なズレとは、その本人は問題は文化的な違いにあると思い込んでいること。
こちらはその人のその性格そのものが問題であると思っていること。
こちらとしては侮辱のお返しだけはきっちりしようと考えていて、仕事なので頼まれたお願いは最低限こなそうとは思うものの、向こう5年はこちらから何かしようとは思っていないわけだが、相手はそこまで深刻には考えていないことだろう。何故なら自分が正しいと思っているのだから。溝は深まるばかりだ。


やれやれ。困った。ここまで書いても何も良い案は思いつかない。無理やり健全そうな方向へ持っていくとしよう。
ここでの学びとしては、自分が正しいと示すだけでは人は動かないということ。
絶対的な能力、人としての度量、技量、そして羨望。技術的にしろ人間的にしろ、ある種の信頼があってはじめて人が動くのではないかと。
モチベーションを下げるだけの行為を行い、そしてそれに気付かないのはあまりに愚かだと、そう思う。

*1:強調しておくが、あくまでこの感覚は自分の文化的背景によるもの。実際に子どもかどうかは別